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2012年05月07日

奥武山公園の今昔

ハイサイ!お元気ですか?  今回のテーマは、沖宮がある奥武山です。
みなさんは奥武山というと、どんなイメージをお持ちですか?

沖縄のスポーツの聖地というイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか。陸上競技場に武道館、プールなど、数多くのスポーツ施設があります。那覇市内で小中高校を出られた方なら、競技大会の応援で、陸上競技場やプールなどに一度は訪れたことがあるのではないでしょうか?
  数々の高校野球の名勝負が繰り広げられた球場は、今や読売ジャイアンツが春のキャンプをはっており、スタートの年から沖宮に、原監督をはじめ、多くの選手のみなさんが、ご参詣にみえられました。
 もうひとつのイメージは、「お祭り」ではないでしょうか?「那覇まつり」、「産業まつり」、そして僭越ながら私が関わっている「琉球の祭典」など、大小さまざまな催事が開かれています。

 ところで、みなさんは奥武山には、3つの神社があることをご存知ですか?世持神社、護国神社、そして沖宮です。このことからも、尊い地であることが伺えます。
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 ここで、奥武山の歴史についてひもといてみましょう。現在は、橋や埋め立てにより陸続きになっている奥武山は、その昔、漫湖の入江に浮かぶ島でした。つまり、歩いては行けなかったんですね。
 琉球王国時代の奥武山は、それはそれは美しい景勝地で、江戸時代の有名な絵師、葛飾北斎が、琉球八景のひとつとして描いているほどです。
奥武山公園の今昔
 1710年頃には、心海上人(しんかいしょうにん)が、護国寺の隠居寺である龍洞寺(りゅうとうじ)を奥武山に創建したという記録があります。弁財天堂の蓮池と浮見堂があったという記録から、花鳥風月が麗しい趣ある寺社であったことが想像されます。
 1721年の「中山伝信録」には、「奥武山は、もと蛇のすみかであったが、僧心海がここを開いてから蛇は海を渡って逃げてしまった。堤を築いて潮をせき止め、泉をひき松を植え、五・六軒の家を構えた。前に沼があり、小亭が二つ。仏桑花やソテツなどをたくさん植えてある」との記録があります。

こんな民話も。
琉球のその昔、ミミズは奥武山にのみ棲んでいたという。ある十五夜、ミミズが揃って月見を楽しんでいたところ、長老ミミズが涙ながらにこう言った。「奥武山のミミズは増えすぎた。このままだと、食べる土が絶えてしまう…」と。これを聞いた若ミミズたちが悲しみのあまり、一斉に泣き始めた。この騒動を聞き付けた青大将が言った。「渡地(わたんじ)に渡れば土はたくさんある」。これは渡りに舟とミミズたちは、フクギの葉を舟に漕ぎ出した。それから、土を求めてミミズは琉球のすみずみにまで広まったそうな。
ミミズといえば、エコの象徴です。沖縄のミミズの発祥が奥武山であるならば、その地であることを誇りとし、平成の今、温故知新よろしく、奥武山をエコの拠点としたいとも考えています。

 奥武山が公園になったのは明治34年、東宮(皇太子殿下)のご成婚を記念して、沖縄初の運動公園として開設されたそうです。
 戦後になって公園全体が各施設共々に整備され、とても明るくなり、日々、スポーツ・運動を楽しむ多くの人々で賑わっております。
 さて、今や奥武山周辺は、那覇空港に至近の位置にあることから、観光立県を標榜する沖縄の那覇における拠点としての大いなる可能性を秘めていると、私は考えています。
 今後は、県都那覇市における最高の立地に恵まれた奥武山公園で、人々に多くの安らぎ・癒し・元気・喜びを与えることができるプロジェクトに挑戦しようと動き始めています。
 梅雨はどこへやら、平成二十四年、立夏の月が煌々と輝く宵、四季の花が次々に彩りを競って咲き誇り、風が運んだ香りに誘われて鳥が舞う…、そんな琉球の時代を思わせる景色に人が集う…、奥武山の未来を夢見ている次第です。
【 昔の奥武山公園 】
奥武山公園の今昔
【 現在の奥武山公園・Google Earthより 】
奥武山公園の今昔




Posted by 琉球の祭典 at 09:19 │奥武山